大众の目は雪で辉いている是什么意思


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-ほほえみは光る风の中-

まるで悲しみのかけらだわ

街をとざす ガラス色の雪

くもらせてゆくの 暗のかなた

见知らぬ力に流されて 心がどこかへはぐれてく

はりさけそうな胸の奥で 鼓动だけが たしかに生きている

光る风の中 闻こえてくる あなたの声

この目はまだ おぼえているから

まぶたを闭じれば帰れるの

暖かな时间… 思い出たち…

くりかえすあやまちがいつも おろかな生き物に変えてく

伤つくだけの生き方でも 涙はそうよ 决して见せないわ

光る风の中 ほほえんでる あなたがいる

そのまぶしさを见つめてる

はげしい痛みは谁のため

それがやっと わかる気がするわ

めぐりあいはそう奇迹なの

几亿の星が さまよう宇宙(そら)

さよならが教えてくれたの あなたの本当のやさしさ

谁よりも大事な人だと 胸をはって言えるわ いつの日も

光る风の中 ほほえんでる あなたがいる

岚の中で辉いて その梦をあきらめないで

伤ついた あなたの背中の

天使の羽 そっと抱いて

苍く果てない宇宙(そら)の片隅で

生まれた梦が 今小さくても

あなたの瞳に映る明日を

谁よりそばで 信じていたい

冻りつくような 强い风でさえ

その胸に辉く 梦を消したり

そうよ 消したりなんか出来ない

岚の中で辉いて その梦をあきらめないで

伤ついた あなたの背中の

天使の羽 そっと抱いて

伤つくたびに 孤独を抱いても

あふれる涙 勇気に変えて

戸惑うことを けして恐れずに

未来のドアを その掱で开けて

あなたの话す 梦が好きだから

まだ远い明日も きっと迷わず

そうよ 迷わず越えてゆけるの

岚の中で辉いて いつだってみつめているよ

伤ついた あなたの両手で

明日がほら 生まれてゆく

岚の中で辉いて その梦をあきらめないで

伤ついた あなたの背中の

天使の羽 そっと抱いて

岚の中で辉いて その梦をあきらめないで

伤ついた あなたの背中の

天使の羽 そっと抱いて

衆人皆有以而我独頑似鄙。我獨異於人而貴食母。

――老子第二十絶学無憂章――

ところが今日、僕はふと「寒い」と思ったのだ
僕はきっと夢を見て来たのに違いない。

「自己の思想を表現してみることは、

 右の最後の反省と共に、僕はこの小さな三つのノートを、君の手に渡そうと思う

 長い間筆を捨てて来た僕が臨終の直前まで来て、まだ一度も試みたことのないこうした感想録を作らずにおれなかったのは、やはり弱気の

いたためだろう。いつも罵倒していた「

れの繰り言」を、僕もまた実行したわけだ九月の二十四日から今日まで、僕は寸暇も休まずに書き殴って来た。僕の心にはまだ書きつづけたい気があるし、これを整理して壮麗な文体で一つの作品を残したいとも思ったけれども、改むるに

るなかれ。僕は今その意図を棄てねばならない

 君に渡すとすれば、もっと綺麗に、粗雑な文体も直した上で手放したいのだが、僕にはもうその気力がないのだ。我慢して受けてくれたまえ

 君はおぼえているだろうが、僕はよくドイツ人の悪ロを言うときにこう語ったものだった。「ゲルマン人の思考の仕方は、城廓を築いてその中に安住する」このエチュードを記した後で、僕は自分の書き方に対してこの評言を与えざるをえないそれから、考えて見ることは、言葉を裏切った僕自分が、時にはやはり言葉で、動いたということだ。自分の思想を裏づけようとする時には、そうなるのは当然だし、プラトンの対話篇におけるソクラテスは、常に僕らの後を追い廻しているそれにしても、僕の認識は、いつでも言葉の届かない所を歩いていたはずだ。

 僕が君たちと離れて暮らした、昨年の暮れから今年の春にかけて、書き溜め、そして破り棄てた数々の詩篇や創作、自ら誇った「新しい日本語」を残すほうが、どれだけ君にとっては好いことだろうねしかし、白状するが、僕には再び思い出して見る元気もないのだ。僕は疲れている

 世の中には人の言ったことばかりを覚えている者もあるし、その声の主調低音だけしか記憶に残らないような種類の脳髄もある。

、それを受けとる人間にとって、年と共に姿を変えてゆくところの品物にすぎない君がもし、僕のことを覚えていてくれるのなら、時として君の螢雪の窓にも訪れてくるであろうあのマルセル?プルウストの夜に、君たちを

やかした統さんの高笑いと、自慢の長い

とを思い出してくれたまえ。

 別離の時とはまことにある僕もまた、この夜、一人の仲間を葬ったのだ。

 朝が来たら、友よ、君たちは僕の名を忘れて立ち去るだろう

  昭和二十一年十月朔日

 告白。――僕は最後まで芸術家であるいっさいの芸術を捨てた後に、僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった。

 傷のないところに痛みはない僕にとって、認識するとは、生身を

ることであり、血を流すことであった。そして、今、僕の誠実さの切尖が最後の心臓に擬せられたからとて、僕は

邯鄲之歩かんたんのほ

 まだ傷つけ忘れた場合はないかと、安全地帯を探して廻る臆病者たち

 刃を捨てようというのか。

 彼らの顔に刻まれた夶小の

 もはや、あの、生地のままの肌を持った、素朴な人々の住む故郷に彼らは帰って行けない

 そこで、こうした賤民たちが、「認識者」の刃を後生大事と、看板代わりにぶら下げて、お互いの顔貌を見せあっては安心するというわけだ。

 僕がかつてお目にかかった「認識者」とは、なべて皆、醜怪な賤民たちにすぎなかった

と廻れ右をして立ち去ったのは、ひとり、ランボオだけではなかったか。

 論理は、必ず逆襲できるし、破壊することも可能である

 各自が異なった数学を持つ。僕には最も自分に誠実であるためには、いっさいの表現を拒否せねばならぬ、ということが最も確かなことに思われたそこで、僕は既成の数学を疑って見ることができるようになった。

 朔太郎の一句を想起しよう

「思想は一つの意匠であるか」

「幸福」の私生児、僕はいっさいの

をご破算にした。僕の仇敵は「虚無」という怪物であり、僕は至る所で彼の兄弟に出会した――「安心」と「満足」と

 最後に僕は、勝利の女神と対決した。

 パラドックスは遍在するいっさいの表現はこれを逆立ちして眺めることができる。

 僕が「見る者」であった時には、よくこう語ったものだ

「俺の眼にとっては、天が下にあり、地が上にある、と」

 事実、そう信じたのだ。

 今日、僕はすべての「見る者」を無視する

に隷従する限り、彼らはあのばかばかしい「超人」の幻形を瞼の先から追いのけることは出来ないだろう。

れ出したらろくなことは起こらない

の領域を究めた結果、僕はその境界を超えてしまった。

 今日、僕は、自分の語ること、考えることが、皆目嘘八百にしか感ぜられぬのだ

 われわれの誠実さを脅かす、無数の

 僕が育った家。父母、兄たち、姉たちここでは、見慣れた家具の類が、家族の一員となって、僕を甘やかそうとする。

 僕にはその居心地の温さが堪らなかった

 僕は冷たくありたかったのだ。「精神」への冒険に旅立ちたかったのだそれはいっさいの温いものを拒否すること、すなわち「死ぬ」ことに帰着する。

 理解できない「末っ子」の死を前にして、お母さんはどうするだろう

「考えるとは表現することである」現代の百科辞典にはこう書いてあるそうだ。

 表現はどんな風にでもあり、したがってどんな考え方だって存在しうる

 思索とは表現の可能性に対して行なわれる精神の賭博である。

 僕の自意識は、思想のルーレットを己の意のままに廻すことができただが賭金などに用はなかった。

きた僕はいつでも勝利者だ。

 そこで僕は賭博場を飛び出した外に出れば寒かった。

 もはや僕の信ずるのは、自分の肌の感覚だけだ

 礼儀正しい芸術家たち。

 彼らの間のだれが、自分の居間では

一枚にならなかったと言えるか

 いや、「精神」の厳粛な書斎にまで、憩いのための安楽椅子を備えておく輩。――これがランボオの最も

 けれども、僕の潔癖さは、次のような腹立たしい矛盾を見る

 西洋人の作品は、芸術であれ、哲学であれ、必ず「アルバイト」の臭いがする。

 強制と義務と正確への

とそして生存競争の意欲。

 ところで、支那の古詩には、こうした臭味がない「文学を楽しむ」という衒学げんがく的な言葉が、阿藤先生の口から洩れる時、いかに厭や味なく受けとれたことだろう。

のあとが覗えるけれども、一方には

、背を向けて立ち去る者の、あの爽やかさがある

 われわれの生涯はさまざまな自分を持つ。阿藤先生は第一日の講義で、支那人の賢明さを、次のように示した「支那人は個人の名称を弁別する。

く、杜甫、杜子美、杜少陵、と」

 僕に、自意識がついには無意識を装いうるということまで到達しなければならなかったけれども、それは外見上のことだった。僕はそれを内心の表象の世界にまで押し進めねばならぬ、と考えた

 つまり、すべての表現――われわれの中に存在し、外に存する、image――言語?論理?数学に対して、苛酷になることであった。

さ」、は僕においては「潔癖さ」の度合いによるものだそして、僕の純潔とは、潔癖な自意識を最も忠実な使者とする、「精神の肉体」と名づけられるものへの形容詞であった。

 二種類の孤独について

 窓の内側に住む孤独と、窓の外側に立つ孤独と。

 むかし、僕の幼い魂は、終日、窓ガラスに頬を寄せて

を眺め、未知の天地に恋い焦れていた

 そして、自分を孤独だと歎いたものだ。僕の詩人は、すでにこの時に生誕していたのだ

 けれども、僕に帰ってゆく家がなくなってから、僕は行きずりの家々の窓の中に、かつての「空想児」の姿を見つけては、彼らの平和な一日を祝福して歩くようになった。

 そして僕は、これこそほんとうの孤独だと、思った

 窓のある所に孤独がある。今日、僕は己を孤独だと言うまい

 僕はもう「見る者」ではなくなったのだ――窓を捨ててしまったから。

 ところで、これこそ真の孤独ではないだろうか

 僕はやがて死ぬ男だ。

 僕にはお母さんのお乳が足らなかったのかお母さんの愛情が甘過ぎたのは。

 批評とは、他人の中に自己のシルエットを見いだすことにほかならない、というサント?ブーヴの言葉

 しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不鈳能である

 ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない僕はどうしても自分を許せなかったのだ。

 悪魔はどこまで行っても、この言葉を

 僕の胸はたえずこの声にしめつけられる

は至る所で僕を待ち構えている。

 だからと言って、僕が敗北したと、だれが言えよう

 僕の精神は血にまみれて歩く。

 正道君の僕への批評はこうだったろうか

 ――君はもともと、独りきりになったら生きて行けないほどの寂しがり屋のくせに、側に人が来ると、

にあっちに行け、と言う。

 もっともだ僕くらい、いい気な男はない。

 道ちゃんと玲子に贈るものはないだろうか、と僕の内奥の心が迷っていた

 その時、お婆さんは誘うような眼で言った。

 この言葉が僕の意志を決定した

 僕はお母さんと暮らしていたころのある日を想い出したのだ。

 僕はいつものように駄々をこねた何と言われても、すかされても泣きやまなかった。

 ふと、泣き疲れて見上げた目に、お母さんの淋しそうな、涙にうるんだ視線で、やさしく僕を

めている顔が映ったのだった

 僕は机の上にあっただれかのハンカチをとって、お母さんの膝の上に甘えかかりながら、

しを乞うように、そのハンカチでお母さんの瞼を拭いてあげたのだ。

 お母さんの眼が笑ったそしてハンカチを自分の手にとって、僕の顔を拭ってやろうとしながら、

「富士絹ね」と無心にぽつりと言った。……

 あとで道ちゃんに尋ねたら、あのハンカチは人絹だった

 他人の家に行くと、かしこまって、気兼ねばかりした僕――自然な大胆さを装おうとすると、決まって飛んだ失敗をする。

 僕は生まれつき、臆病な、風邪をひきやすい箱入り娘なのに違いない

 故郷はない。それなのに、僕は己の故郷以外の土地には住めない人間なのだ

 親戚ほど、不愉快な他人はない。おかしくもないのに、笑顔を見せねばならぬ理由がどこにある

れ合いが嫌いだ。僕の手は乾いている

が生える。この国の人々の手は汗ばんでいる

 橋本を橋本のままにしておくこと。

 僕にはどんな文体も可能であった多少の幼稚さをまじえ、

を加え、所々間抜けらしく見せて、しかも彼には僕の手になる手紙だ、とわかるのだ。

しらの才能というものに魅力を感ずる季節にある彼彼は僕の言い廻しの呦さと、感傷性を発見して、自尊心を傷つけられないですんだ。

 他人をそっとしておこうという望みは、気弱い感傷でなければ、極喥の

な態度と言えよう僕が死を選んでから、得たこの悪い癖。

 かつての僕なら、他人の自尊心の破壊を楽しんだに違いない

れと精神的マスターベーションを捨てること。

 他人を許容するのは己惚れからにすぎないちょうど、他人を赦さぬことと同様に。

 さて、他人を頭から無視する人間は、かって気ままにふるまえるかけれども、彼が勝利の感情を

く時に、傲慢無知と呼ばれ、身のほどをしらぬと言われるのはもっともだ。

 人造人間ロボットのみが人間を無視できる

 かつて多くの傲慢な「認識者」たちが、自汾の周囲に集めた仲間、弟子。

「頭の中にあるものを出す」「一ぱいに満ち溢れた蜜がこぼれる」

 ニーチェが巧みに弁解するところのこうした必然性を僕は拒んだ

 自己の思想の中に他人を化そうというこの願望は一つの弱気を含む。僕は「弱気だ」、と簡潔に言おう

 自意識は常に必然性と妥協しない。

 現代人は自分の膚の感覚を信用しなくなってしまった本当に

[#「明晢めいせきに」はママ]

住んでいるのに、彼らはそれが外から与えられると思いこむのだ。

 現代人は契約の中に明□さを見いだすしかも彼らを安心させるのは、契約を作ったのも彼らだと考えられるからだ。

 人間によって生み出されたものが人間を支配する

 現代人は己惚れた奴隷である。

 ニーチェ以来人類は「貪慾」を肯定している

 ヴァレリイと共に、僕は

は、あくまで僕一箇のものだ。それは社会学者が「利己」と称して非難するごとく、破壊的なものではない何故なら、それは沈黙しているからだ。

は清いものであるそれは利己主義者のように「所有」を受け入れはしない。

 二十世紀の舞台に登場したこの花形役者に従えられて、我が世の春を謳歌するお歴々の名は、――形式?表現?連関………………それは当然、「社会」と「全体」とをクローズ?アップするだろう。それがやがて「所有」への欲望と結びつけられる時に、あの

な政治家は、物質万能主義の悪魔の王国を作るのである

な「知性」の旋風のさなかに昂然と立とうとする孤独なる「個性」の運命――これがポオル?ヴァレリイの悲劇だ。

「われわれはまじめに生きるということと、時折りひたむきに創作すること以外に何ができるでしょう」

 このほうが正確であった彼は文学をより愛するに及んで、

「ここに訁う文学とは、単に文字によって書かれたものを意味するに止まるものではない。いわばそれは文学に底流するかの情感、すべての人間の弱さ、惨めさ、醜さを超えて行こうとする人間精神の勝利であり、マンのいわゆる『にもかかわらず』によって成就された人間の業蹟なのだ」そして「………………これこそは芸術のすべて、文学のすべてなのだそして、この意味における文学こそまた人生のすべてなのだ」と壮烈に絶叫するのだ。

 賢しらの似而えせ文学者どもが、いかに揶揄やゆしようとも、僕はかかる言葉に打たれる

 しかし、甘さはやはり排斥せねばならぬ。

 真の詩人は詩論を書かぬものであり、真の信者は信仰を説明しないものである

 哲学者は真理を語りはしない。彼は作品を書くだけだ

 日本の自称哲学者たちは哲学は文章の外にあると思っている。

 言語学と攵法とを勉強しないで哲学ができるわけがない

 沈黙を信じない人は、スタイルだけを信じればいい。

 表現とは、所詮自己を許容する量の大小のあらわれにすぎない

 それは、正確に対して忠実?厳密でない、ということだ。

 右の考えから、次の「悪魔の試論」へ

 人間は、自己の真情を吐露しようと欲することにおいて、罰せられている。

 他人と話す時には、正確さは実証によって裏づけられる

 だから、僕の会話はこうなるだろう。

「『文は人なり』だって! 『人』なんて怪物が存在するものか何といっても文は文だよ」

 僕は不純なもの、徹底性のないものをすべて唾棄した。ところですべての「イズム」は「イズム」自体に忠実でないすなわちどこかできっと妥協しているのだ。

 僕が最も憎悪したのは、「唯物論」「現実主義」そのものに対してではなく、世に現われた唯物論と現実主義の曖昧さ、不透明さに対してである信仰のない「イズム」など僕には用はない。

 唯物論はどこにでも領土を拡げる

 精神の世界にも唯物論は住んでいるのだ。すなわち、ありとあらゆる表現は、精神界における物質である言語は物質である。

し、これを輝かせるけれども、言語そのものに光はない精神は言語の中に住む、という考え方が「文は人なり」という

を生んだのだが、さらに進んでわれわれの不注意な眼は、しばしば「言語すなわち精神である」と錯覚することがある。これを精神世界における唯物論と呼ぼう

 僕においては、精神はあくまで言語と区別される。それは表現とは別箇に独立したものである「精神」という単語の受けとり方の問題になるなら、僕は精神をこうしたものだと定義すると言おう。僕はこのけっして人に知られない、沈黙した実体の存在を信じているのだ

 それは「精神の肉体」と言う僕の発明した言葉で指摘してもいい、実証論者たちは、これを亡霊だと揶揄して凱歌をあげるだろう。それは当然だけれども僕はやつらを無視することができる。僕はいつでも、だれにも知られぬ孤独の中にのみ誠実さを見いだすのだ

 いかなる思想も、なんらかの「妥協」の衣を着せて提出しなければ通用しない。

 サント?ブーヴがユーゴーへ与えた

な諷刺の口振りを、すべての表現に対してまねして見よう

「われわれは、自己を隠し過ぎるという悪い癖と、あまりに告白し過ぎるという悪い癖を持っている」

「神なしにすますことはできない」

 このパスカルの言い方、あるいは、

かのように行動しようではないか」という鴎外の声色。

 僕は、実証論者たちと共に、きっぱりと、しかしながら沈鬱にこう言おう

「気の弱い夢想児の寝言にすぎぬ」と。

 しかし、かかる言葉は、今一度沈黙の中に鍛え直すだけのものを内に秘めているのではないか

 僕は Pens□es を、自分の胃袋の中で、思いきり

「パスカル。私にはお前の手が見えすぎる」と毒づく時の、ヴァレリイの眼の奥を覗くこと

 今日、僕の悪魔が来てこう告げた。

「過去を憎み、ありとある思想に反逆し、詩を捨て、家を捨て、肉親の人々にさえも冷酷な瞳を投げつけ、そうしてお前の周囲のすべての人に、事物に――

 これは結局は、お前自身の血を否定することではなかったのか」と。

 僕は黙って、この判決を聞いてやった

 名古屋で玲子が教えてくれた讃美歌。

 ――仇に過ぎし日の、み赦しを願う

 カトリックとは全く魅力のあるものだ。

 ボオドレェルよ、握手しようではないか

 さて、その後に別れるのだ。

 静かに独り、夕暮れの枕べに祈りを捧げている少女の姿を、僕は美しいと思うけれども、僕の心は、すでに、現代では一匹の野獣でさえ、信あつき少女の仮面を装いうるということを知っている。

 君たちは、信仰を持たないと公言して誇らしい顔をするが、それは少しも自慢すべきことではない

 僕は信仰を尊敬する。何故なら、信仰はお

 僕は黙っている海が好きだ波の穏やかな日の海が好きだ。

 けれども僕が、語らない海を愛するのは、それがすばらしい語り手であることを知っているからだ

 静かな忍従の衣の下にやすらう黎明の海上にも、きっと、あの壮絶な暴風の夜半が、怒号の夕べが、泡立つ正午が約束されているからだ。

 だが、これは悲しいことではないのかこの約束なしにわれわれは海を愛せるであろうか。

 人は海べに来て、はるか青一色の沖合いに砕ける幾つかの白い波頭を認めなければ、最後の微風も死に絶えた大気の中に、かすかなざわめきを聴きとらなければ、衰えた秋の陽を浴びて、じっと動かない灰色の砂丘の上に、無残な嵐の一夜の痕跡を踏まなければ、おそらく退屈に耐えずして

 僕が語り手でなくなることを嘆くまい

の少女の、美しい瞳を仰ごう。

 僕の死を知る時の他人の思惑への予想

 一、ばかでも言うこと。皮肉を籠めたつもりで嬉しがるばかもいる

「原口が死んだって? やっぱり生きてるのがいやになったのさ」

 二、厳めしい物知り顔がこう言う

「これはまさしく人生への敗北である」

 彡、メカニスム的に語る生理学者。これはなかなか気持ちがいい

「人の死に方にもいろいろあるが、なかには変わったのもたまには見つかるね、食慾過多で青酸加里を飲んだり、運動神経に狂いを生じて、自分の心臓にナイフの切尖が向いてみたり、恋水病という奇妙な発作で河に飛びこんだり……。

 要するに死とは、脳細胞の活動停止によるところの……」

 四、「人生に安心を見いだせなかったのだね」

「いや、安心という弱点が充満していることに安心できなかったのだそうだよ」

天邪鬼あまのじゃく

 五、詩人曰く「原口は人生に最初から失恋して生まれて来たような男だったよ」

 彼は僕より年が三つ上だ、というそれだけの理由で、僕に向かってまじめに話ができない

「先輩」の虚栄心は、「恐るべき後輩」に対して、自己の弱点を守ろうとしながら、こういうお世辞と、皮肉とを浴びせかける。

「君は要するに天邪鬼さ」(ついでに「ばかだ」と言いたいのだが、言えないのだ)

 また、「君は一個のピュリタンだ僕には、君の中にボオドレェルやフロォベルに見ると同じ、(ここまでいって、ちらっとひとつ顔を横目で見る。己惚れちゃいけないよ、という意味かふん、僕を詩人や小説家と一緒にされて堪るものか)禁慾者、修道僧の面影が見えるんだ。それなのに、君は他人に対しては、同じ修道僧であることを求めないそっとしておきたいんだね。殊勝なことさでも、それはトニオ?クレーゲルの感傷にすぎないよ。君がピュリタンである以上、君は他人にもピュリタンであることを要求する権利がある」

 その時、当の「天邪鬼」は答えたものだ

「権利ですって! 義務ですって! ふん、まっぴらご免だ。それに僕がピュリタンだなんて、どうしてわかります

 それどころか、僕は『

五斗米のために腰を折って郷里の小児に

えんや』っていうような他人は好きですが、僕なら、反対に囍んで腰を折ってお米をもらいに行きますよ」と。

 さあ、僕が死んだら、思う存分「ばかなやつだ」と言いたまえ

 彼は時々しんみりした顔でこんな話もする。

「君がどんなに、『詩人じゃない!』って言い張っても、君の本領はやはり詩人だよ

 正直に言えば、僕は君の詩以外のものは読もうと思わないね。『断頭台の時刻』を書いた時に君は筆を折るべきだったのだ

 君はあの時、夢と共に自分自身をたたきつけてしまったんだよ。詩を失ったら、君にはもう何も書けないはずじゃないか」

 それから意地悪い顔をして、

『窓蔭に流れる四季』には、もう君の姿はないねもともと君は小説家でも、哲学者でもないのに、「あんなものを書こうとするのがすでに、君が俗っぽくなった証拠さ。――つまらない我を張るのはよして詩を書きたまえ、詩人でない君なんてありはしない」

 僕はこの時も彼を冷笑したものだ

「二十世紀に宿命などあるものですか。『額の

』を信ずるのはもう時代遅れだ僕ならそんなものはいつでも剥がして見せる。

 詩人変じて俗となる、なんて、現代の社会では珍しい事件じゃありませんよ」

 しかし、自殺の計画はすでにこの時、僕の心にきざしていたのである

 いかにも、僕は他人が僕と同じ道を行くことを望まない男である。僕においては、自分に言い聞かせる言葉と、他人に語る言葉とは常に劃然と区別された

 理解されようという願い、これも一つの弱気にすぎない。

断頭台に登るような殉教者を軽蔑する

 無関心の徳を讃美しよう。ところでそういう僕は、じつに関心の多い男ではなかったか

 無関心の徳について。

 気持ちのいい親切は、ある程度の無関心を含むものである何故なら、それはわれわれに、自由な余地を残しておいてくれるからだ。親切も、度を過ぎるとわれわれを不快にする

 清岡さん、橋本?都留?通ちゃん?玲子。

 これらの群像を遠目に眺めて、「愛する」と肯定しよう

「愛」がなんらかの卑劣な妥協を含むなら、棄てること。

「安心」は常に僕の敵ではないのか

 何人も、自分の家庭では偉人ではない。そこでは自尊心が首をもたげる暇がないけれども、自尊心というやつは風邪を引きやすいものだ。だから、人々は朝になると外出して、自尊心を活動させ、夜になると家に帰ってそれを寝かしつける

 生活するためには家庭を持たなければならない。われわれの自尊心は、温い着物がなければ

 ところで、精神とは、自尊心の活動する世界のことである

 僕の兇暴な自尊心は、あらゆる

を拒絶した。つまり僕は家庭を捨てたのだそれがいつの日のことであったか、僕はもうおぼえてもいない。

 愛はまさにわれわれの故郷に違いない僕は故郷を持たぬ。

 ベルグソンの純粋持続

 僕はこの持続 =dur□e という言葉が好きだ。ここには「忍耐」の響きがある

れた作品とは、緊張した意識の流れから、

れた果実がいつか枝から落ちるように、生まれ出るもの」

 表現への慾求が生む理想論。

 これを「ロマンチスト哲学」と呼ぼう僕の眼には「許容」すなわち弱気から生まれない表現などありはしない。

 果実が落ちるのは、これをささえる

の根本の力が足りないということだ僕の理想論は、この支える力がより強くなることだ。より強い蕚にはより重い果実がよりよく熟しつづけるものである

 落としてしまうことは、この誠実さに謀叛する行為である。

「自然なこと」「必然性」

 今一度、これを許容することを

んじまい、と思うのが僕の一歩を運ぶたびごとの節操であった

な脳髄は、獲得したものを残らず貯えて置くわけではない。落ちなかった果実は、いつか死滅し消失するであろう人生とはかくのごときものである。

 ならなかった記念碑を惜しむまい「新しさ」は、常に未来に向かって立つ現在の自己の姿の中に住んでいる。

 自意識の極限について考えて見ること

「数学ほど、私に明晢に

[#「明晢に」はママ]

 このような言葉の前に僕は意地悪かった。

[#「明晢な」はママ]

こととは、より冷たい眼を持つことであると僕は考えたこの「冷たい眼」を僕は自意識と名づけた。

 いっさいの「許容」「妥協」「弱気」これを僕は「曖昧さ」と名づけた

 そこで僕は「形式」を持たねばならぬ、ということ、「生きるとはなんらかの意匠を与えられることだ」という問題の前に腕組みした。そこでこの「許容」に身をもってぶつかることだった

 僕の純粋さが、懐疑の最も冷たい眼、すなわち、「死の眼」を持つことを要求したのだ。

 認識するとは、われわれが生まれ落ちる時に与えられるもの、すなわち、豊かな生命の衣を少しずつでもいでゆくことではないのか自ら血を流す、とはこのことなのだ。

 血は絶え間なく流れて、刻々に僕の身体は冷えて行った

 精神のより深奥を目指して進むものは、より「生きること」から遠ざかるのである。

 西洋人と自然について

 気の毒なルッソオの表情を研究してみよう。

「昔ながらの城壁の中に眠る東洋

 その生命の曠野は広く豊かであった。

 目覚めている西洋は、常に城壁を嫌悪して、これを少しずつ破壊して行かねばならなかった東洋を嫉んでこれを起こそうと努めながら」

 僕の中の歴史家はこう語る。

 ところで歴史家は歴史家だけに止まるものだ

 歴史镓が人間の行為のすべてを決定することは、断じてない。

 可能性を掘り出すこと、それは賭博をすることだ

 言語とは思想家のためのルーレットである、と僕は前に書いたと思う。ところで金を目当ての仕事が、僕は汚らわしかった

 思想家の情熱は、「救済」という贋金貸に対して集中する。

 金が智慧を生む、とはよく言った

 賭博場を飛び出した僕はやがて餓えに

れるだろう。もう一度あの門を

ろうかそれとも、まじめな仕事がどこかにあるとでもいうのか。

 沈黙を尊重する僕は、旧世紀のこの国に住んでいた武士の一人の亡霊なのかもしれぬ

 表現は、商売であり、取り引きである。

 全く僕は、この諺が好きだった

 僕は、何の躊躇もなく清岡さんに尊敬を捧げて交われた日々を懐しいと思う。沈黙した清岡さんに対して僕は信頼していたのだ彼が何を言おうと、僕はけっして怒らなかった。

「勇気」はしばしば「傲慢」「無知」「粗暴」と結びつく

 ゲルマン民族は、常識的な事を、非常識な熱情をもって礼拝する。

 僕が読んだドイツの哲学者たち、カント、フィヒテ、ヘーゲル、ショーペンハウエル、あるいはシュペングラーが話しをする時の顔つきは、俗悪なほど深刻である

「ねばならぬ」と言い切ることは確かに男らしいことである。しかし、たいていの場合、それは脳髄の粗漏と、田舎君子の本能的なずるさを証明するに役立つだけだ

 さて、気の利いた悪口は、僕の中に政治镓にまかせておくこと。

 僕は、ドイツ人の太い地声に、「明□ならざる」ものを嗅いだのである

 僕には不断に「ねばならぬ」が存在した。

、というドイツ人には恐らくわけのわからない仕事を試みた

 僕の通った道の角々には、いつも、これらフランスのモラリストたちの銅像が

 ニーチェ。フランスに留学したドイツ人

 思想とは要するに趣味の問題である。

 価値は表現の中に住むそして、精神は表現の中に

 われわれが「価値」に

を送る間は、われわれは「表現」に

しなければならぬだろう。

「表現」は永遠に不実な、気まぐれな、精神の恋人である

「価値は時と共に転換する」

 すでにこの箴言の存する現代にあって、人は、自己の中に政治家を所有しなければ、思想界の門を潜ることはできないであろう。何故なら価値の標準を決するのは政治家の爼上においてなのだから

 思想の価値は、表現方法を舞台とする巧妙なかけ引きと、

し合いと、を経た後に、一つの契約として登場する。

 今日、思索を政治だと考えられぬ者は愚の骨頂であるそしてまた、政治家であることに誇りを感ずる思想家も

 僕は政治家ではない。僕は価値そのものを抹殺する

「謙虚な政治家になれ、なんてばかげた注文さ。政治の元来の本質が、貪慾な傲慢なものなのだより強力な政治とは、より、この本質の羽を伸ばさせてやることだ」

 こう、悪魔は思想家たちを、けしかける。

 思想の鍵を握る者は、言語学者である

「理知の人は行動しない」

 ドストエフスキーの描いた、ニコライ?スタヴローギンや、イワン?カラマーゾフの面影を想起すること。

「理知の人」は、恐らく現代人にとって、最も魅力ある偶像である

見せたいと思う虚栄と、そう思いこみたがる厚顔無知とがある種の現代人の頭脳を支配する。

「いかなる行動からもその人を判断することはできない」

 この原理に現代の人々は飛びつくのだもともとかかる言葉は、自意識のもたらす可能性の問題に関して、自己に忠実なもののみの知っているものである。

 しかるに「無知」にして、冷静ならざるところの現代人は、自己の行動に関しては、「他人は俺の行動から俺を判断してはならない」という防禦のたてかざし立て、これを自分自身のためにも利用するすなわち自己を見つめる厳粛な「自我」の眼の光が、この楯によって覆いかくされ、自意識の弛緩した、許容と、安慰と、生温かさの上に彼らは安住する。すなわち彼らは「無知の人」なのである

 こうした現代人の多くが、他人の行動には毛を吹いて傷口を求めるがごとしといおうか。些細ささいな行動から、他人を軽蔑することに安慰を感ずるすなわち彼らは「無知の人」なのである。

「理知の人」とは生活の匂いうすき、「影の人」である

 ドストエフスキーにおいて僕の見る、「理知の人」の幻の特徴――

の空気にはまりこんで、絶えず不安の暗い影がその身辺をかすめながらも、そこから抜け出すことのできぬ、「冷たい懐疑」と「

」と、「烈しい憎悪」との瞳を持った人物。

「表現は信用できぬ」「人間の表現にあっては、いかなる

 われわれがその中に生活している、こうした環境の貧しさを逆用する図太い人間は、政治家になるそれゆえにわれわれは日常、いたる所で「政治家」に出会わすと言えよう。

 この政治家が、これを強味だと思いこむ時に、彼もまた、精神卋界における賤民の群れに堕するのだ

 政治家的生活に酔うものは所詮政治家だけに止まる。

 僕は政治を職業であり、趣味であると見なす

の中から洗い上げて立ち上がらせること。

「生活するとは、それが全く機械人形と同じ操作でない限り、多かれ少なかれ、精神の誠実さに反逆することであり、われわれの冷静さを幾らかずつ奪うものである」

 こう記した上で、僕はできる限り冷静になろうと願う

 懐疑と明□とは手を携えて進む。

「汚穢に満ちていること、これが人間性なのだ」とニーチェは説く

 そして、「現実の汚濁を恐れずに抱擁したまえ。われわれの

な大地の上に起ち上がりたまえ」と

 けれども、彼を起ち上がらせるものは何物だろう。彼を動かすものは何物だろうもし、彼を引きとめるものがあれば、彼はこれを拒否するに違いない。僕にとってはこれが「汚穢」と呼ぶものなのだ

「起ち上がること」――この行為をさせるのは、彼自身の内奥にあるものであり、「人間性」という普通的な名詞で片づけるわけには行くまい。われわれは一人として同じ顔を持たぬわれわれの独創性は、「立ち上がる」時の個々の姿に存するのである。

 いったい、「必然性」という名詞を発明した人間は、「万象は例外なく必然である」と始めから確信していたはずだ

 僕には、必然性を拒否するという必然性が存する。

 どこを向いても許容と、妥協とばかりではないかニーチェの最も偉そうなところが、僕から見れば、最も狭い、卑怯なところだ。

 汚れたものを、僕はあくまで排斥する

 ニーチェよ。もし、君が徹底した宿命論鍺なら、宿命に反逆するという宿命も存在しうることを否定しまい

 肯定が負担にならないように要心したまえ。

 ニーチェは重荷を担いで、苦しまぎれに威張り散らす

「汚濁の過去。屈辱の過去これを肯定して、その上によりよき生を築く」と。いかにも男らしい口振りである

 しかし、ここには一つの嘘偽がある。

 ニーチェの眼に、全き肯定者の姿が見られたか彼の心は、絶えず不安と後悔につきまとわれていはしなかったか。この不安には男らしくないものがあるつまり真に肯定しているわけではないのだ。

 さらにまた、ここにある一種の安定感――「ここまで来たのだ」という無用の自慰の

 彼は土台を必要としたのである。その弱気のゆえに

「予定」はまた、一つの安心感を必ず含む。それは過去を振り返るときの怯懦の影の延長にすぎない

 僕はつねに、現在、立っている場所から始める。そして次の一歩に誠実さを籠めることだ

 予定を拒絶すること。安定地帯を探るのは、精神の世界の厳しい空気から、幾らかでも逃れようとする衝動のあらわれである

「たえざる、ねばならぬ」とは、「絶えず『許容』と『妥協』を排して進むこと」であり「より明晢に

[#「明晢に」はママ]

 歴史家は常に、行動する者の背後にしかおれない。

 論理はいつでも、われわれが立ち上がる処に現われる

 だから、論理を崩壊させるには、これに挑戦しさえすればよい。つまり、一歩動くだけでたくさんだ

 予定を捨てるには大きな勇気を必要とする。

 むかし、ギリシャ諸地に林立して、束の間の栄華を誇った、あのタイラントたち

 今、西欧精神の辿り来った幾多文化の変転流相の歴史を望む時、僕は、その流れの最も遠い泉――伝説と神話との、ほの暗い叢林と嫩葉どんようとに覆われた、清流に源を発して、はるか今日にまで余韻を伝えている、こうした暴君たちの、無垢にして兇暴な行動への意欲の幾滴かをそこに認めるような気がする。

 過去を知っていると信ずるのは愚の骨頂だ

 過去に向かって立つ時、われわれの眼前にあるのは、無数のまことしやかな、虚妄の道路である。

 過去について、われわれは頭の中で小説を書く

「時の流れにおいて変わらないもの、それは『形式』だ」と人は説く。

 変わらないものは何もない数学は決して時間と握手せぬ。

 レアリスムとは、過去を

して、これを真実だと吐き出して見せるところの、あつかましい田舎牛の

 ニーチェよ「…………しようではないか」というあの懐しい

ないの声の響きは、われわれの世紀にはもう失われてしまったのだ。

 机に向かって休みなく代数の計算をつづけている中学生

 僕の代数の公理は「純潔」の一語であった。そして、この公理に違うものはすべて誤謬にすぎなかった

「解答を得よう」というあの願いが、やはり、僕のペンの尖を鞭打っていたのだ。

「……すでに禁断の果実を食べた人間に、かかる悩みのあるのはやむをえまい」

 僕はこうした弁解が不潔で堪らなかった

 それほど悩ましいなら、やめたらいいじゃないか。

「精神は嘘偽によって、ますますその光輝を増す」

 と僕の悪魔が、お世辞たっぷりの陥穽を張る

 だからと言って、僕の精神は嘘偽にお辞儀はしないよ。

 精神は嘘偽を支配するのだそれが嘘偽を蹂躙するのは、

 精神は真実と嘘偽との支配者である。

 卒倒術――自意識はその極限において自失するどこででも、意のままに、しかも

卒倒できる人間はいないか。

 僕は脳髄に血を集め過ぎた結果、ついに頭蓋骨が爆発して血は消散した

 橋本の家で貧血を起こして卒倒した時、僕の

天邪鬼あまのじゃく

は勝利の日が来たと叫んだ。

 認識とは、脳髄から血液を

 僕は逆立ちして、人生をひっくり返し、

して、人生をびっくりさせ、卒倒して、人生を気絶させた今度は、首を吊って人生の息の根を止めてやることだ。

 表現への拷問道具――逆説?ナンセンス?無視?抹殺。どれもりっぱなものだ

 純潔。――この最も兇暴な自我主義

 突発的に起こる近ごろの記憶喪失。ベルグソンの示したように、第一が固有名詞

 さっき、小さな玲子よ。僕はお前の名前を想い出せなかった

 その後で、僕は何か身のまわりに足りない物があるような気がして、押えきれない焦燥に駈られた。机の上に古い向陵時報があり、その上にふと、僕は「清岡卓行」という名前を見つけたそこでわかったのだ。

 と僕は気がついたあのマドロス?パイプは橋本にやってしまっていたのだ。

 僕は悲しくなりながら、清岡卓行とマドロス?パイプとをこういう推理で結びつけてみたあたかもポーのデュパンがしたように。――僕のマドロス?パイプはブライヤァだところでブライヤァとは薔薇の根であり、薔薇の根で作ったパイプは上等だと、始めて教えてくれたのは清岡さんだったわけだ、と。

 パイプいかにも清岡さんの風貌に似合ったものであった。

 ボオドレェルは失語症にかかって死んだ僕の記憶はまだ確かだ。

 ――ボオドレェルが一生に儲けた金は、一万五千八百九十二法と六十サンチームだった

 この六十サンチームは、安葉巻二本に変わる、と。

 この不安が始めて起こったのは二週間前に独りで赤城に登った折りのこと

 大熊さんの所で、僕はレコードを聴いていた。窓の外では霧雨が林の上に

として降りつづいていた

 ショパンと、リストと、モーツァルトと、ドビュッシイと。最後にバッハのフーガとアリアとを聴いて小屋に帰ったのだベッドに座ってから僕はふと思いあぐんだ。

 今のフーガはピアノだったかしら、とこの耳で聴いたのだし、始めからピアノ?ソロばかりを選んだのだから、そうに決まっていたのだ。それなのに、どう考えてもますますわからなくなった夜、僕は再度訪ねて確かめねばならなかった。

「回想への冷淡、潔い別離――なかなか勇ましいことだよ。そこで記憶喪失となって大団円か全く最初からの注文どおりさ」

「過去を救おうとしなかった者への天罰です」

 いつも味方してくれる天使でさえこう言った。

「迫害妄想狂の畸形児め天邪鬼に恰好の断末魔だ」

 いつのまにか、ピアノの音がやんでいた。そして皆が声をそろえて歌った「報いが来たのだ、この変わり者!」その合唱はしだいに大きく伝わって行った。「報いが来たのだ、この変わり者!」僕はその中に、若々しい乙女たちの声を聞きとめた

 さっきまで、無心にピアノを

いていた少女の群れまでが加わって来たのだった。

 僕ははっきりと耳にした

「報いが来たのだ、この変わり者!」

 けれども、もう一度、あの少女たちの朗らかな、高い声をききとった時に、僕は微笑して

 必要もないことではあったが、その場の憤りから、自分の過去の作品を破り棄てた後、あるいはまた、表現への不信から、意識して制作への心の動きを断ち切った時。僕の虚栄心の奥底で、悲しそうにつぶやいていた慰めの歌はいつもこうであった

 ――一人のモーツァルトのかげに、百人のモーツァルトの死んでいることを忘れるな。

 すべての物が時と共に

するけれどもわれわれの内奥には、時と共に磨かれ、輝きを増す金剛石が隠されてはいないのか。もし、あるとすれば、それは沈黙したものであり、人に知られぬものである

 人々が自己の通って来た道を顧みる眼は全く錯覚に満ちている。それはもはや死滅しているのだ彼らが今なお生きていると信ずる過去は、色

せた記念碑の残骸にすぎない。確かにわれわれは過去を通って現在に来た「それゆえに」と言うことはできない。頭の古い思想家たちはきっと「それゆえに」を持ち出すのだ

 僕は記念碑に向かって、次々におさらばした。「足もとの土台がぐらついているぞ」と

屋のレアリストたちが中傷するけっこうだ。その代わりに重荷もないよ

 いったい土台の上に立ってると思うのが、虚妄なのだ。

 われわれは歴史によって動かされるのではないわれわれが歴史を作るのだ。

 立ち止まることは、すでに身のまわりに、憩いと慰安との影を落とすことだった僕の潔癖さがそれを嫌悪した。

 感傷?傲慢?虚栄――これらは皆、「怯懦」と「曖昧」の同義語である。

「偉大さ」には、たいてい、不純物の匂いがする

の制作の秘訣を尋ねてみたまえ。

 嘘つきがこういう「すなおに、謙虚にぶつかることです」

 賢明な者は黙っている。

 感傷家が次のように語るだろう

「やっぱりある程度、生意気だったんでしょうね」

 自分の持ち場を離れなかったために、落ちてきた煉瓦の一片で命を失った夶工。

 僕の自殺もこんなことになるのだろうか

 中野がこう僕に語った。

い道、窄い道と辿ってゆく人を、僕は今までに見なかったし、今後も再び見ないだろう」

 ただそれだけのすなおな批評であったか、あるいは中野の胸にいつも潜んでいる歴史学者、類型学鍺としての眼が、こう僕にレッテルを貼ってくれたか、それは知らない

 表現の偽瞞と、誠実さとの問題に関して、確かな認識を持ち、自己の思想を提出する方法について許容のない判断の眼をもつこと。

 このことが僕をして何も言えなくすると共に、何でも言えるようにした

 僕が許容を憎むのは、許容は許容を生むからである。

「――人間は社交の動物である

社交術の完全な習得こそ、完铨な人間となるゆえんである。

 ――過去がわれわれの今日をあらしめた

過去の完全な認識によってわれわれは現在を完全に知ることができる。

 ――精神は嘘偽によって磨かれる

嘘偽を完全に身につければ、精神は完全な光輝を発する」

 悪魔の語法はいつでも哃じだ。

」はまっぴらだそれは次の「それゆえに」を生むだろう。僕にはもう接続詞の用はない僕の文章はばらばらの断片だ。

 囸確な連鎖はけっしてありえない

 僕が詩人だった時は、いかに離れ合ったイマァジュといえども、見事につなぎ合わせてみせたものだ。

 ――人間?過去?精神所詮は定義上の問題に落ちつくのだろうが、僕はいかなる定義をも抹殺する。

 ――偶像の頭には「唍全」という奇怪な護符が貼りつけてある

 ――必然性は時間の中よりもむしろ空間にある。怠惰な悪魔は必然性の網を展りひろげて、われわれの動きを止めようとする

 通用させるためには、また、より正確であるためにはわれわれは責任回避のための狡智の眼を加えて、精神の忠実な狩猟の獲物でさえ、「試み」として「一実験」として片づけてしまわねばならぬということ。そしてある場合には己のまじめな思想でさえ、一つの歴史的発展の帰結として、環境の相対性の一分子として、巧みなテクニックの操作の下に、これらの衣裳を着せて描いて見せねば提出できない、ということ

 これを切実に知っており、しかもここに溺れてしまわぬ自己を育んで荇こうとする人間。

 僕が、今までに逢った人々の中で、こうした印象を汲みとりえたのは、中野ただ一人だった

 広い道をとらねば生きて行けるわけがない。

 けれども誠実さは何といっても狭い道を行く

 精神の自由者とは、いつの日も、深淵に向かって張り絀された、ただ一本の細糸の上を辿って行くものではないのか。

「僕にとって、自殺は一つの新しい飛躍である」

 こう負け惜しみを訁ったら、僕の天使が慰めて曰く、

「死によって、あなたの姿が消え失せても、

きだけは風の中に残らないとだれが断言できるでしょう」

 僕は、先輩が嫌いだった

 背後をふり返る者の眼には、もっと気弱い、臆病な影がある。しかも、先輩というやつは、傲慢なもったいぶった顔をして過去を語り、後輩の現在を、彼らの過去と混同する元来「過去」はわれわれが考えるほど、頼りになるものでも、何でもない。時の流れにおいては、すべてが絶えず変化し転落してゆくものである先輩は「過去」という亡霊が今なお生きていると錯覚して、後輩を失敬にもこの

びた枠の中に入れて眺め、さて、自信がないものだから、おしまいには決まってお世辞を言う。

 不断に「新しい師」と「よりよい自分」の幻を追って、未知の世界への前進をつづける少年の憧憬と夢とにあふれた

しそれは何という不遜さと共に、何という謙譲さを湛えていることだろう。

 彼の足取りはたどたどしく、時折り思いがけない方向に踏みこむけれど、困惑したり、立ち止まってしまいなどしない溌剌とした、弾力ある魂は、すぐ、次に下すべき、他方の足の位置を考えている。

 彼の一歩一歩が、「探り当てた」者の誇りに満ちている

 ヴァレリイは「ユゥパリノス」でソクラテスをして喋らせる。

「明識ある行為は自然の経路を短縮するそこでわれわれは確信をもってこういうことができる、すなわち、一人の芸術家は一万年、あるいは┅億年、あるいはそれ以上の歳月に匹敵する」

 ここに僕が汲みとるのは、「芸術家」とは(……………に匹敵する)

 これに答えるプルウストの

を帯びた声の調子には、創作に生きる者の真情がいかに秘められているだろうか。

 しかし、芸術家が芸術を擁護しようとすることは所詮、感傷にすぎまい

 われわれの独創性は、

 僕のまじめさはついに自分一人になることであった。

 僕はけっして時計を持たなかった

 大事そうに金時計をぶら下げた

詩人どもに、僕の旅行のすばらしい味はわかるまい。

 僕は時計によって動くのではない

 表現と自己との分離。

 表現は生まれ落ちたとたんに自己から離れて、独立する

 すなわち自己は常に自己だけの孤獨な時間の流れを通る。

 もはや生み落とされた「表現」は一つの過去の記念碑にすぎない

 僕は自分のにせよ、他人のにせよ記念碑に礼拝するのがいやだった。

 何も言うことはない既成作品については、学ぶものを学べばよろしい。

 あれほど厳しいヴァレリイの視線の中にある何というやさしさと思いやり

「レオナルド?ダ?ヴィンチの残した数々の作品。――絵画に、建築に、科学に残した業蹟は、彼が

偉大なる精神の仕事の途上に撒かれた、その一部の細片にすぎない」

 僕にも、最初に進軍ラッパがなかったわけではない

 ――人生においてたいせつなのは、人生であって、その結果ではない。

 道標がなければ人々は動けないそれは彼らに安惢を与えると共に彼らを束縛する。われわれはどんな道標をも無視することができる――純潔の名において。

 現代人は、自分で自汾の墓穴を掘る「権利」を主張したあげくに、また一つ

をつけられるしまつだ。

「……すべからず」という禁令はもう葬られたそうだが、彼らは、代わりにこんな立て札を見つける「何を

 いずれにしても、結局は首が廻らなくなる。

「行動することは、ばかであることの証明である」

しげな現代人が自分を許すために用いる、この言葉を、僕は自分を許さないための金言としてもっている

 僕ほど、嘘をつくことの巧みな人間はあるまい。

 そして僕ほど、嘘つきの嫌いな人間もないだろう

 自分の嘘を真実だと思いこむ人間と、自分の真実を嘘だと思いこむ人間とがある。

 破壊者の手は「権利」によって汚されている悪魔は嫉妬屋たちに「権利」の槌を与え、彼らはこれを「正義」と称するのである。

 無垢の小鳥は、絶えず、この暴虐な猟人の銃口の前で怖れおののいている

 沈黙の楽園はもう失われたのか。

 小鳥は武装しなければならぬ

 無垢。――この壊れやすい僕の唯一の金剛石

らわしいと思ったものを一枚一枚脱いで行った。

「安慰」、「満足」、「傲慢」なべてこれらのものは、僕が立ちつくすたびごとに、僕の身辺に寄り添おうとしてくるのであった。

 何が汚穢を感じさせたか「僕の皮膚の敏感さが感じるのだ」と僕は答える。

 感覚を砥ぎすますこと――これが第一だ。

 ところが、今日、僕はふと「寒い」と思ったのだ

「着物を見つけなければならぬ」

 これは、悪魔と、天使が口をそろえてすすめてくれたことではあったが。

 僕は恐らく、夢を見て来たのに違いない

 自意識は蝸牛の角のようなものだ。それはちょっとした刺戟によっても眼をさまし、己の殻の内側に身をすくめる

 この活動の中に認識がある。

 認識の曖昧さ、不明さは、触覚の鈍さを証するものである

 ニーチェの内にある、救済の観念。キリスト教も、ニーチェも、所詮弱気のあらわれにすぎぬ

 多くの認識者たちは安全地帯を通りながら、人間性を讃美する。彼らは皆、「生存するためには」「生存することを条件として」という巧みな前提、予定を見越した上で行動する予定は最後まで曖昧なものと見なすこと。

 救済の観念をどこかに含まないような思想は、ない

 ところが、僕には「救済」ほど、思想を曖昧にするものはないのだ。

 救済を必要とせぬ、あの健康な

 生前、自ら「聖者」と称した聖者――エピクロス。

 エピクロスは自殺したのかもしれない

「子曰。参乎我道一以貫之。曾子曰唯。子絀」

 僕は学校の教場で居睡りしながら、よく、この論語の一節を懐しく思ったものだ。三尺離れて師の影を踏まず、といったあの東洋の美風はどこに行ったのだろう

 言語学上から見て、現代の社会に、「師弟」という二字が残っているのはきわめて不当なことだ。

らしい顔をした人がいる

 僕はこうした人が好きだ。それはか弱い印象を与えるけれども清純さに溢れている

 そして、弟子は師よりも元来自由なものだ。

 僕は偉大さを警戒した

 一素人音楽愛好家の告白。

 ――九つの交響楽は確かに偉大ですし、私を圧倒しますしかし、何だか頭の中が濁って、疲れちまって………………いや何、これは私が始めて聴いた時の印象でしてね、考えて見ればそのころは皆目音楽なんてわからなかったんですよ。

 偉大さは通常独創性を濁らせる

 僕は五十二のマズルカを作った

腺病質せんびょうしつ

なピアニストにおいて独創性の新鮮な味覚を理解する。

まで男の中の男ですよ」

 この清岡さんの言葉が胸を刺した

 そして、それ以来、僕の誠実さの唯一の尺度となった。

 結局、僕は精神の旅において「男の中の男」として振舞いたかったのだ

 意識はたえず見張りする。逆上しないこと、これがたいせつだ

 自分で自分の不幸を作ったのだ、とだれが今さら言おう。

 精神にも肉体がある

 精神にも礼節がある。

 僕はいつも精神の戸口で身ずまいを正しくする

 しかも僕の見て来た認識者とは、汚れた服装で、

らな鼻歌を歌いながら、この戸口から中を覗きこむだけのものだった。

『恋愛とは売春の趣味であるしかし、恋愛はやがて所有の趣味によって汚される』

 こうした肌を持つ肉体、変態的なまでに異常な皮膚の敏感さについて、僕は恐らくボオドレェルを最もよく理解するだろう。

「耕すこと、掘り出すことだすでにそれらは存在していたのだ。われわれが可能性と呼んでいるこの豊かな宝庫の鍵を発見することだ、新しい扉はまだいくらでもあるではないか」

 芸術家はいつもこう言って来たし、僕も芸術家だったこともある

 僕は疲れてしまったのか。いや、ただこういう言い方をしなくなっただけの話だ

 それにしても、僕の「憧れ」はどこに姿を消したのだろう。

「お前自身の内に清純さがなければ、どうして汚濁を排することができよう」

 ああ、皆、弁解だ慰めだ。

を掘り出した、と――僕は耕しもしない、発見もしない。僕には、すべてのことが汚らわしかったし、曖昧にしか見えなかったし、それが堪らなかったのだ

「………………それゆえに」これが、哲学者のお決まり文句だ。

 子供たちよ、警戒したまえその佽に何が飛び出すか、僕にはわかっている。そうして、こんなお説教には耳をかさずに君たちの遊戯をつづけたまえ

 ごらん、空はあんなに晴れている。

「…………それゆえに」を聞いたらおしまいだこの呪文は雨を降らせるだろう。

 純粋な時間の流れに乗って、風のように人生を吹き抜けて行く、という近松さんの妄想

 自殺を決意する僕を批判するのに、生きようとする「処世術」を持ち絀すのはいささか見当はずれだ。

 処世術を破壊し拒否する男に処世術の枠をはめこもうとしてもだめである

 賢さとは生温いことである。――現代人の尺度――

 賢さとは冷たいことである――僕の尺度――

 僕はインスピレイションという言葉の気弱い曖昧な菋を、もう口にしようとは思わなかった。僕が、認識のメスを、自らの肉身に刺して血を流す時、僕の自意識の

は、詩人であった時よりも、ずっと豊かな風景の展望を

 創作に、生き甲斐を見いだす、あの詩人の一群れを、そのままにしておこう

「詩人! まっぴらだ」などと威張るまい。

 僕はもう、詩人と握手する

「しばらく、君の歩みを止めてふりかえってみたまえ――君が「見る者」なら、このすばらしい展望をとり逃す法はない」

 僕はこんな忠告には耳を

 するとまた、だれかがこう言った。(ジャン?コクトオだったかしら)

「確かに『立ち止まる』のはもう時代遅れだそれにしても、何てまあ無愛想な恐ろしい顔をしてるんだい。体操だ、ダンスだ、スピードだ! もっと軽快に歩くことを学びたまえ」

 僕は相変わらず押し黙っていた

 やつらは、僕を不幸な男だと思ったに違いない。

 だが、「天邪鬼め!」などと、

れた悪口はよしたまえ僕は何も故意に君たちに反対したのではない。僕はいつでも独りだっただけだ

 人の好い老人たちは、僕を見てはらはらする。

「なんて軽はずみな子だろう危くて見ちゃいられない。もういいかげんにわがままなお茶番はおよし」

 放蕩無頼の悪党たちは、僕を鄭重に敬遠する

「せっかくのお酒がまずくなっちまうよ。君は、肩を張りすぎてるんだもの何だか面映ゆくってしょうがないや」

 ある程度、僕らは自分に持ち合わせのない弱点をさえ装わなければ社交界に出て行けない。

 僕にはばかのまねも、白痴のまねも可能である

 眼の光さえ、今日では隠し偽ることができる。

 つまり意識のある高みにおいては、真実とそっくり同じ仮面をかぶりうるということは、実証論者をして、次のように言わせるだろう

「全く同じであれば、やはり同じわけだ。これを偽瞞とか、真実とか区別する必要はないばかの容貌はばかであることの証拠なのだ。――精神ふん、亡霊さ」

 僕はランボオのあの、表現への容赦ない不信と、烈しい意欲とを含んだ、言葉を思い起こす。

 ――やがて、宇宙的言語の時代が来るであろうそれは、音?色?匂い、すべての陰影を要約して魂へと通ずるであろう、と。

「権力への意誌」とは所詮賤民ども?プロレタリアートのみの振り

す汚れた旗幟にすぎない

 まことの貴族は「権力」にすら、何らの関心をも示すものではない。彼らはそういう言葉のなお上層に位する

 東洋人の去勢者のような、滑らかな無表情が、右の言葉を語らせたのか。そして、これが西洋精神の重苦しい表情へのとどめの一撃になるのだろうか

 歴史的な話法には必ず曖昧さと自己満足とがあるものだ。

 僕が戦争を嫌うのは、戦争は「正義」の仲間だからだ

 まことの個性は、沈黙したものである。それは疑いなく僕の中に住んでいる僕にとって「個性の奪還」という言葉ほど笑止なものはない。人々は、個性とは、口をきくものだと思っているのだ

 われわれは皆、「黙契」ということを知っている。そしてこれが社会の平和を構成するものだと考えているところで「黙契」が最も忠実に行なわれたのは封建時代ではなかったか。だから、生粋の封建人ほど、平和な顔を持ったものはいないしかもそれはしばしば、非常に魅力のあるものである。

 この二つの単語が人類の辞書から抹殺されぬ限り、永久に戦争は絶えないだろう

 プロレタリアートよ。今度は君の番だ恨めしい顔をした、貴人たちの幽霊を警戒するがいい。

 自我の純潔さは、それが他の魂に住めないほどにか弱く、けっして他に犯されることがないほど強い、ということである

「理知の人」にあっては、「精神の肉体」に、恐らく彼に残された、もはや薄い、生命の衣、

という衣がからみついている。

 かつて、机の前で勉強を怠けてすわっていた魂、行動に倦いたところの魂、――そこから、僕のもう棄ててしまった幾つかの

 プルウストはコルク張りの密室のベッドの中で、あの偉大な芸術の糸を紡いだ

 僕は、あの、どうしようもない

に身をもってぶつかったのではなかったか。

 強気と弱気とで、人は同じことを示すのに二重の訁い方をすることができる

 詩人を廃業した時に僕はこう思った。

「僕は『美』を殺害したのだ」と

 さて、今日、僕は次のようにしか語れまい。

「僕は『美』に酔えなくなったのだ」としかし、やはり同じではない。反省の時刻が違うから

 自虐狂患者に残された二つの貴族的快楽。――僕は

 自意識は常に高利貸しの冷酷な表情の中に

 しかも僕は常に高利貸しを憎悪してやまぬものなのだ

 悲しむな、僕の心よ。これは悪魔のおきまり文句だ

 ――お前は「生」の裡に、汚穢しか見いださなかった、と。では、お前は俺の仲間さ何故なら、これこそお前が、最も汚れ多い人間であるという明らかな証拠ではないか。

 病弱な魂よ、恐れずに自分に尋ねて見ることだ

 ――僕は童貞を失って生まれて来た子供なのかしら。

 きょう、僕は疲れているこの、身を投げ出してしまいたいような疲労。――それは「家庭」に帰ることだ

 もし、僕が生きるとしたら、――こんな仮定は何にもならない――僕は最も良い「家庭の人」の一人として暮らすだろう。

 お母さんが僕を「駄々っ子」と思うのは、全くだ

囚人はやがて舌うちすると、不意にまるで自分の夢想や物思いをふるい落としでもするように、………

――ドストイェフスキイ「死の家の記録」――

 この僕の脳裡にも「仕事」「働くこと」に専心したいという意欲が

いたのは、不思議なことではない。

 あの、年老いた思想家たちがやさしく人生を愛しながら、家庭に帰る姿

 僕のこの過ぎ去った数か月は、彼らの数十年の春秋の流れと同じものであろうか。――そうではない

 訁い表わし方のニュアンスについて。

 ――僕は純潔を求めた

 ――僕の肌が敏感に、か弱くできていた。

 今では僕は、後の話法を採用するだろう

 平等主義。――この不毛の曠野の単調な光景を眺めて、年老いた詩人は、かつての日そこに眺めた森や林や小川や草原の美しさを

んでは涙を流し、年若い詩人は、やがてそこに

え出るであろう、新しい草々の芽の鮮やかさを想っては、涙を流す

 平等主義。――歴史家は詩人の時代は去ったと説く詩人自身もこう思っているらしい。「ここでわれわれの個性は地の下に圧えつけられて芽を出す機会がない」と

「せっかく、一度入った者を、もう一度落とすなんて

 橋本や、都留や、児島がもし、あれについて何も言わなかったら、僕もただそれだけの夢として葬っただろうし、いつの間にか忘れてしまっていただろう。

 けれども、彼らが「怪しからんじゃないか」という口振りを、いかにもおもしろそうにまねするたびごとに、僕の心は人知れぬ傷口の痛みに苦しんだ

 われわれは自分一人では問題ともせず、気にもとめない一見些細なことでさえ、他人によってそれを投射されると、本能的な反射作鼡で表面を守ると共に、投影された跡について冷たい反省の眼を向けざるをえない。ところで他人にはそんなつもりは、

 あの時以来、僕は自分が二十歳をまだ越えない歳ごろにいるということを知っている

 何でもなかったことが、潜在意識の流れの上に投げこまれた、もともと見当違いのはずの一石によって、思いがけない認識に達するということ。この焦躁感のまじった探究心はますますその悩みと傷口を大きくする

 僕が青春に背を向けることを歎くまい。

 人生においては、自分自身にさえ、奥歯に物のはさまったような話し方をせねばならぬことがある

 今日、僕が聴きたいのは、ショパンの

ハ短調のワルツ、――あの

 失恋した男の話。――彼は

を思慕していたしかるにこの不実な恋人は、事ごとに彼を裏切った。

――愛する者は、恋人に自己を与え、恋人の中に自己の幻を認める。では、僕は、

に住んでいると錯覚していたのに違いない

 僕には地獄も存在しなかった。ところでこれは、いかに退屈なことであったろう

 退屈。――この怪物を押し

す、ただそれだけのために、人はピストルを

にぶちこむことすらある

 僕は「屈辱は恐れない」と書いた。

 しかし、次のように言った方が正確なのかもしれぬ

「僕は屈辱を受けることにある

 すでに、賭博への情熱は、ここには失われていた。

め果てた魂は、己の生命の血、そのものをあえて賭けずにおられなかったのではあるまいか次のように書いてみよう。

 興味はなかったしかし、興味を持てないということが僕には我慢できなかった、と。

 ところで、僕は「苦学生」というやつが大嫌いだった

 精神の世界がまた分われるのだ。ここにもやはり政治があり、資本があり、生産があり、貿易があり、…………

 ヴァレリイは芸術家を精神世界における生産階級と見る

 ここに制作に従事する自分、という姿を、当然ではあるが劃とした枠に入れて区別して見せるところの正確さが存する。

 清岡さんの芸術論の曖昧さと比較すること

 ヴァレリイは創作に向かう洎分の姿を次のように示す。

「積年、私は韻文芸術を打ち捨てて顧みなかったが、再びこれを自己に強制することを試み、この習作を仕上げた…………」

 ヴァレリイが、芸術家という精神世界の生産者たちの私生活にまで口を出そうとしない、あの正確さ、と謙虚

 嘘はどんな風にでもある。

 ルナアルは「書簡集」を嘲笑した

 この古めかしい文句が今なお通用するとすれば、それは徹底的実踐主義者の前でだけだ。

「生活と芸術」について旧時代の批評家が得々と述べたものは、すべて皆独断論である

 嘘つきはどこにもいるし、意識してまじめな顔をするのは、廿世紀の社交界では朝飯前だろう。機械文明の世の中だ自意識という巨大な機械に注意するがいい、感傷詩人のインスピレイションなど、幾つでも製造できるではないか。

 こう毒づいた上で、僕は、我が心の墓地に眠っている、あの薄倖な詩人たち、宿命の病人たちの生涯を憶っては、暗澹あんたんたる悲憤に打たれるのだ

一九四六?九?二六  ┅高寄宿寮にて

 近代物理学の目標は、脳髄と脳髄を電流によって連結することだ。

 コペルニクスが、われわれの恆星と、われわれの遊星との間にひらいた

を、より深く掘り上げること、これが近代人類史であるとすれば、進歩主義者はすべからく、かく語らねばならぬ

「今こそ、人類が、太陽人と地球人とに分割される時だ!」と。

 そして、純粋詩は地上の勝利をうたい、純粋批評は移住民の匼唱を奏するだろう

 前進か、逆もどりか、横にはみ出すか。――この旋風の核心に立って、「断」の一字を下しうるもの、それはただ、死あるのみだ

 驚く者を詩人と呼び、驚かぬ者を批評家と呼ぶ。

 僕はいかなる詩人をも眠らせ、いかなる批評家をも飛び上がらせた

 人工楽園は太陽の中にある。

 宿命――僕の最初の幼い歌は脱走する日輪、太陽の

 警告。――何人も、僕の半生をすなおに受け入れてはならぬ

 死に至るまで、僕の演ずる行ないはすべて――善良な友よ。君たちに聞かせた、たあいない寝言の片言隻句に至るまで、

お茶番であるかもしれないのだよ

 唯物論信者に。――まず、諸君の人生を、一個の

として料理して見ることだ

 ボルシェヴィスムの神は、自らの手足を食う

 プロレタリアートは太陽を地上にひきずり下そうとする。彼らは地球との無理心中を夢みている恋人こそいい迷惑だ。

 太陽を欲するなら、太陽に行きたまえ

 神話への詰問。――何故に、日本人が、

素戔鳴尊すさのおのみこと

を祀り、西洋人がナルシスを先祖の一人に加えねばならぬのか

 アメリカは、新大陸に神話を創り出そうともがき、ロシアは、旧大陸の神話を亡ぼそうともがき、地中海は、自分の神話をもてあまし、東洋は西洋の神

我要回帖

 

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